山崎の合戦

1998.11. 正雀車庫 Photo by: T. Nakajima

(写真提供:中島忠夫さん この写真は転載禁止です)

昭和の初めは世界中が大恐慌に喘いでいた時代であり、経済的にはみんな

苦しかったが、日本の鉄道界においては華々しいスピード競争が繰りひろげ

られていた時代でもあった。

特に私鉄王国関西においてはその傾向が著しく、1930年(昭和5年)に登場

した阪和電鉄モヨ100形は天王寺−東和歌山間を評定速度81.6km/hという

驚異的なスピードで走り抜けた。

1928年(昭和3年) 大阪天神橋−京都西院間に開通した新京阪(現在の阪急

京都線)は、「P6」と呼ばれる大型高速電車を投入、国鉄(当時は鉄道省)

の看板特急「つばめ」と山崎付近で激しいデッドヒートを演じてみせた。

世に有名な山崎の合戦である。

1750mmの大動輪を持つ高速パシフィック機C51形を鉄道省の大将とすれば、

新京阪の大将は52tの全鋼製車体に200PS級のモーター4個を搭載した

P6系のデイ100形。双方相手に不足はなかった。

合戦の模様については橋本雅夫氏著「大阪の電車・青春物語」(草思社刊)

の中に記述されているので、そのまま引用させていただきたい。

 

とにかくP6は重厚な車輌だった。連結幌がさらにその重厚さを増大させた。

これはアメリカ製で、緩衝装置付の貫通幌というらしいが、阪急の920系

とはまったく違う電車の顔であった。ちょっと軍国的な表現になるが、いう

なれば重戦車、しかもすごい快速。正雀あたりで省線の特急列車「つばめ」

を射程に入れればもうしめたもの、高槻から上牧あたりで時速95キロで

飛ばす蒸気機関車牽引の日本一の超特急列車を、新京阪の二輌編成の

超特急電車が追う。

あのあたりの線路は直線の連続で、天王山を回るためにわずかなカーブ

があるだけだが、東海道本線のほうは山崎付近でどうしてもスピードが

にぶる。そこに付け込んで新京阪はぐんとノッチを入れ、大山崎を過ぎた

ところで省線の下をくぐって突っ走り凱歌を挙げる。負けて悔しいのか

「つばめ」のC51蒸機は汗のように湯気をはいていた。

「つばめ」を追い抜いた瞬間の、新京阪乗客によるヤンヤヤンヤの喝采が

聞こえてきそうな話である。